昭和50年04月20日 朝の御理解



 御理解 第37節
 「生きておる間は修行中じゃ。丁度学者が年を取っても眼鏡を掛けて本を読む様な物であろうぞ。」

 それは丁度学者が年を取っても、眼鏡を掛けてでも本を読む様なものであろうぞいと云う事。云うならば勉強をすればする程勉強が身に付いて来る。云うならば学徳が身に付いて来る。その学徳が身に付いて来る事が楽しいのである。信心も例えばお釈迦様が仰る「この世は苦の世だ。苦の世界だと」そういう苦の世苦の世界と云う様な世界に住んで、唯その苦を苦の世界を、それを修行と受けると云う様な行き方ではなくて一生が修行中じゃと仰るのは、云うならば信心の勉強をさせて頂いて信心の力が付いて来る。
 神を信じる力が付いて来る。御神徳が身に付いて来るそれが自分に分かる。信心の稽古をさせて頂いて、そういう稽古そういう修行でなからねば、私はお道の信心で云う修行にはならないと思う。だからどう言う難儀な例えば問題があってもその問題を通してです信心の稽古をさして頂くのであるから、その事は云うならば煩わしい問題であったり、難儀な問題であったり致しましても、けれども有難いと云う事になるのです。
 勉強すると云う事は決して楽な事ではなかろうと思う、けれども所謂知識はそれだけ広まって行く、勉強の徳が身に付いて来る。それが云うならば楽しいのである。云うならば死ぬまで眼鏡をかけて、本を読む様なものであろう。云うならば様々な研究なら研究に生涯を打ち込むと云う事がです、学者の言わば学者たる姿で有ります様に、信心者云うなら信心させて頂く者はです、丁度学者がその様な姿勢で学問に打ち込み様に、私共は信心にその様な姿勢で打ち込んで行かなければいかん。
 どうでしょうか信心の力が付いて行く様な稽古が出来ているでしょうか。あゝ是こそ御神徳と言う物であろうかと、御神徳が身に付いて行きよる実感が、または日々体験が生れておるでしょうか。唯参りさえすれば良い拝みさえすれば良い、悲しい時の神頼みと言った様な事で信心が終始したら、云うならば信心も大した事ではありません。いやむしろ詰らんと思う。神様に御無理を云うてお願いするだけが信心であるとするなら、もうこんな詰らん。云うならば神様に借金をする様なものです。
 昨日は森部の高山さん所の謝恩祭でした。大体五月の十一日が謝恩祭で御座いますけれども丁度、お父さんが亡くなられまして、昨日が丁度十日に当たったんです。だから丁度十日祭まだ改式がして御座いませんので、仏式でお葬式をされました。それで御霊様はここの元の総代をしておる位でしたから、本当に私は是は皆さんも分からない世界ですから、私が信うだって信じなければそれ迄ですけど。
 本当に昨日繁雄さんと話したですよ。本当に貴方方は合楽で総代の御用を頂いておると言う事は、実を云うたら大変な事だよと。もう云うならね金光大神の世界、云うならばあの世に行って金光大神の世界で、合楽教会の総代を何年勤めたと云う事で、ちゃんとそれだけがもう云うならばですね、云うなら格が出来ている。是はあの前の杉さんの時もそれを感じましたがね。吉井の杉さんの時も。合楽教会の何々会の幹部であるとか、幹部というだけでもそうです。だがそれだけではいけん。
 矢張り信心力、信心神徳を持って行かにゃいけませんけれども。只その総代に籍を置いておったというだけでです。もう御霊様の取扱が違うです。それは信心の徳を積んで、御用の一つもさせて貰うて、そのおかげを受けて行かねばならんと言う事が解ります。それがまだ子供達がおりますし、特に長男の秀樹さんが今大阪に居られますので、どうでもその僕が帰るまでに謝恩祭をしてくれとか。娘達も私達が居る間に宅祭りされるなら有難いからと云うので、もうその急遽変更致しまして、今日と言う事でしたが。
 今日は菊栄会で出来ませんから、なら十九日にしましょうというて、アッと云う間にだから、一日でサアー家の中の大掃除から諸準備、もう大変な事だったらしいんです。そしてまあ大変な準備がして御座いました。金光様の信心ちゃ有難いなと思いますね。家の中心である所の主人が亡くなって、云うならば未だ十日しか経ってないのにです、子供達までがです謝恩祭と言う事は御恩に報いる御礼のお祭であります。
 信心の無い者が聞いたら、馬鹿のごとあろうと思います。お父さんが亡くなっとるのに、御礼のお祭なんてん思うだろう。そりゃあね矢張り悲しいに違いありませんよ、けれども後先のお繰り合わせの事を思うたら、もう亡くなられた時点であちらのお母さんが云っております様に、信心されない方が聞かれたら、私の気持ちを聞かれたら笑いなさるか知れませんけれども、只御礼を申し上げるより外じゃなかったと云っとります。
 私は信心の有難いと云う事はどう云うそういうもんです。人生の最大の悲しみに直面しましてもです。その事自体は悲しいです。もう永の別れになるのですもん。それこそ生別離苦の悲しみであります。けれども有難いのです。本当に神様ご守護の中におかげの中にこうあったんだと、それがはっきり是に感じられる。だから一日も早よう謝恩のお祭をさせて頂きたいと云うのです。しかもその余んまり急な事で御座いましたから、もう一家を挙げてその事に打ち込んで、丸一日間で準備が出来た。
 同時に仮の御霊様の御祭壇を設けました。そして亡くなられた又は十日の帰幽祭を併せてさせて頂きまして、本当に有難いと思うた。私お祭終って御霊様の前に出らして貰いましたらね。丁度あのうこう色々な花をね、丁度仏様の花筒に段々に、あの花を奇麗に見せる為に、奇麗にこうそのまま花筒に差せば良いと云う様な感じを、下を括ってもう是を差しさえすれば良いと云う所を頂いたんです。そしてこれを差そうと思うたけれども、花筒にお水が無いと云う所を頂いた。
 高山さん本当に何か知らん、けたたましゅうそのう宅祭りを早くする事になったんだけれども、御霊様の願いであっただろうね、と私は申しました。それはね造花ではない造り花ではない。本当のいわば生きた花である。云うならば告別式も矢張り信心があるから如何に仏教でやりましてもです、真心込めてやった。所謂心の花を寄せ集めてさせて頂いたんだけれども、サアー肝腎要の仏教では現在それを慰すとか、それに何をか与えるとか云うならば、まあはっきり言うならばですね。
 日々の生き生きとしたおかげを頂く、与えられる力が無くなっておる。お水が切れておると云う事です。宗教によって病気が治るとか、災難が避けられると云った様な事はです、もう低級なものの様に、今の云わば仏教あたりでは云います。只告別式の時の為の仏教と云った様なもう何の力もない。どんなに云うなら遺族の者が、真心込めて花を集めましてもです、その花に水を与える力がないのです。今の仏教は。
 今の仏教はまぁ私はそう思うですね。それだけの力のある宗教はないです。いくらもですから、丁度その十日祭にですね、その云うならば水を注いだ様なものであった。だから是から十日、十日のお祭だけは、是は必ずさせて貰わにゃいけんよと云うて、夕べ話した事でした。そう言う様な霊祭も併せての、昨日は高山家の謝恩のお祭で御座いました。昨日高山さんの所へ行こうと思うて、此所で着物を着替えて待機しておる時に、日田の坂本さん達夫婦が参って来ました。
 「やぁ先生居られて良かった」と「いえ本当に良かったね。私ももう迎へに来たらすぐ発たんならん所だった。実は今日昨日の月次祭に、昨日の事なんですね一昨日の十八日の夜の月次祭に御礼に出たんですけれども、親先生がもうあちらに退られたから今日又お父さんに云うて、わざわざ御礼参拝さして頂いて、親先生居って頂いて良かったとこう言うのです。と云うのはどう言う事かと云うとね。大祭の前日か前々日に御参りさせて頂いて若先生にお取次を頂いた。と云うのは今自動車学校に奥さんが行っている。
 所がもう私の顔は見るとその自動車学校の運転のその先生ですか、その方が二人居られる。その二人とももうそりゃえげつのう言うて、その怒られるそうです。どうしてあんた覚えが悪かやんなと言うて怒られる。だから私は行くとがもうクーッとなってから。もう先日も行ったばってん、とうとう学科の方の勉強だけしてから、実地の方はもう怒られるのが怖くて、もうその習わんで帰って来た。
 そしてもう自動車学校の運転免許を取るとはもう止めようかと思うて、御参りをしてからその事をお願いさして頂いて、若先生にお取次頂いたら。若先生がいきなり「あんたも我が強かもんの」と言わしゃった。もうそりゃ何時も主人から言われとるけれども、そげな段じゃなか。私は我は強うなかと思いよったけれども、若先生に言われて見て、ほんなこて私は我は強かっちゃろかとこう思うた。
 そしてね「坂本さん自動車学校へ行くとはね、心の勉強に行きよると思うて行きなさい」と云わしゃった。それがね訳は分からんけれども何かブスッと胸に来るものを感じたちゅうんです。自動車学校へ自動車の稽古に行くとも、ただ自動車の稽古じゃなくて、心の勉強に通いなさいということを言われた。何か解らなかったけれどもです、何かこれに応えるものがあった。
 そしてその翌日の御大祭にも、自動車学校に行かんならんけんで、御大祭にお参り出来んと前は思いよったけれども、そんな訳ですから自動車学校にもあんまり行きたくないし。それで夫婦で御大祭のおかげを頂いて、親先生の御説教を頂いておる内にです。あの長いお説教を皆んな私一人で私に言うて下さると思うて、もう感動一杯に頂いたそして前日は、若先生が言われた心の勉強と云う事がそして解らして頂いた。
 もう有り難うて有り難うしてという気持ちがどっからか沸いて来る。翌日はそれこそ意気揚々として自動車へ行ったちゅんです。そしたら二人の先生が口を揃えて言われた事がね「坂本さん、あんた急に心が豊かになったね」と、云わしゃったげな。しかも二人の先生が、それを言われてです。成程心の勉強に通おうと思うただけで、もう人相から変わっとる、姿勢が変わっとるそこに気付いたとこう言うのです。
 だから此の事は早よう御礼申さして貰わにゃおれんと思うて、十八日のお月次祭にお参りしたけれども、親先生にお会い出来なかったからと言うて、昨日わざわざそのお礼に出て来とった。私は是だと思う出す信心とはなら今日の生きておる間は修行中じゃと言う事は日々がです。私達は心の勉強をさして頂いとるんだと、例えば姑姑の仲が悪い嫁さんが信心するそこでです今日もお母さんと私の間にです、信心のお母さんを通して心の勉強さして貰おうと思うたらもうそれこそ勉強ですから楽しゅうなって来るです。
 お母さんがどう言う風なそれを、それを信心でどげな風に受けようか。今日も又どげんえげつのう云われるじゃ解らん、今日も又どんなに怒られるか解らんと思うたら心が萎縮して。先日ある人じゃないですけど、お母さんがやかましゅう云いなさる。もうあんまり固うなっとるけんで、茶碗でんなんでん割らんでよかとば割る。ほうれでこの頃から良か茶碗ば割んなさったげな。そしてお母さんがジロッと睨みなさったけんで、ビックリして又取り落してから又割ったと。(笑い)
 そんなもんですよね。今日又怒られんならんと思うたらもう心が萎縮するのです。所がです今日は自動車学校に心の勉強しに行くと思うたらです。ならどんな風に苦い顔をされても怒られても、それを日頃信心の勉強でどう受けようかと言う様な、言うなら和賀心ですね、和らぎ喜ぶ心を持って学校にやらせて頂いたら、二人の先生が揃うてです「坂本さん今日はえらい心が、なんとかが豊かになったね」と云われたから、嬉しゅうしてこたえんから、悪う言われる事もなからねば、怒られる事も無かったと。
 例えば人に苛められるとか、人に意地悪くされる人はね、意地悪くされんならん物を持っているとですよ。是は間違いないです。ですからあの人が悪かじゃないです。自分自身の心の中に、苛められなければならんものがあるです。間違いないです。とても今度来たらあん奴、怒ろうと思うたっちゃですね、その人に邪気のない人であったならもう怒ろうと思いよったちゃ怒られんです。その人の内容が素晴らしかったら。けど大した不調法しとらんけれどもです。
 どうかこうやって、ひっつきもっつどうかこう。文句の一つも言おうごたる人もあるです間には。そう言う物をその人が持っておるのです。ですから私共はね日々です。例えば若先生がお取次さして頂いて云うたという、坂本さん自動車学校の心の勉強に通うとばいと云われた。その事の内容が、大祭日の親先生の御説教を頂かせて頂いとる内に、分からして頂いたというのです。
 それが嬉しかったそれが喜びで、昨日はまぁ御礼に出て来たと云う訳です。ですから生きておる間は修行中じゃと云う事は、生きておる間は勉強中じゃと云う事なんです。ならその勉強もですなら、学徳が身に付いて行くと言う事が身に感じられる。それだけ知識が広うなっ行く事が、自分にも解る。だから楽しゅうて応えんのです。信心でもそうです毎朝、こうやって皆さんがお参りなさる。
 御教えを頂くサア今日も今日の御教へを基本にして、本気で信心の勉強させて貰うぞと言う事になったら、そこにどう云う難儀な様相があってもです。どういう問題が起きてもです、なら是に依ってどう勉強さして頂くかと言う事に取組ませて頂いて始めて。あゝ是が一年前だったらもう本当に涙の出るごと腹の立つ事じゃったじゃろう。是がもし一年前だったら、本当に是で挫折するかも知れなかったけれども、段々信心の稽古をさして頂いておる内に、そう言う様な事に直面してもです平気で受けだけでない。
 むしろそれを喜んで合掌して受けられる心の状態に心が成長しておったとするならばです、信心の稽古が尊い、有難いと云う事が解る。例え中心の云うなら高山さんの所のお父さんが亡くなられてまだ要約十日、その十日目にです。神恩報謝の云うならば報恩のお祭り、お礼の御祭りが仕えられると云うその気持ちが素晴らしいじゃないですか。もうおたくのそれは大体、五月十一日ですばって、まぁだこげな風で教導しとりますけん、先に延ばして下さいというとではないとですもん。
 早くして頂きたい子供達も皆、居る間に是非お祭をして頂きたい。御礼のお祭をして頂きたいと云うのですから、私はそれが金光様のご信心を頂いて日頃、稽古さして頂いとるものの姿勢だと思います。昨日手紙が来た。大分の綾部さんの御親戚の方で、甥御さんが今度県会議員に立候補されて、その叔父さんに当たる方が、もうお前が上がる筈がないから止めろというても、どうでも出ると云われる。
 出るからには当選せんならんので、私くしはもうそれが気を病んで、もう晩でも休まれんごとある。と云うて綾部さんのお道引きで参っておられる。それでね大らかななんと云いますかね、一寸読んでよんでみましょうかね。その節甥の橋本保雄の県議選について、御高配を頂いて誠に有り難う御座いました。大らかな気持ちで、当選を祈れとのお言葉で決心が付きまして心労も無くなり、晴れ晴れとした気持ちで推進を致して参りました。おかげで当選する事が出来ました。と云う風に書いてございます。
 叔父さんがもう当選する筈はないけん止めろと云うて、それでも出ると云うから、もう大変心痛しとられたけど、けど大らかな心で当選を祈れと云われあ事が、非常に心強かった。当選を祈れと云われた事が。だから、ははあー大らかな気持ちになると当選するぞと思った。そこで今までのもやもやを取り去るおかげを頂いて、此処にも書いてあるごと、その決心が付いた。そしてそれから推進、進めて行ったと言うのです。おかげで当選のおかげを頂いて、取敢えず御礼のお届け。
 後程ど御礼の参拝をさして貰うからと云う事が書いて御座います。私共日々おかげを頂いて一つ問題があるけれども、そう言う時に直面した時にですどういう心持ちにならせて頂いたら良いでしょうかと言う様です。お伺いさせて頂くそしてそこにその日の心のいうなら持って行き所、焦点を御教えによって持たせて頂く事からです。苛々しよったものもなくなる。そういう日々を繰り返して行かにゃいけん。そこに御参りの値打ちがあるのです。御教えをはあっ今日はこれで行こうと言うものが心に決まるんです。
それが修行なんです、金光様のご信心は水を被ったり、断食したりと言う事は修行じゃありません。金光様の修行は教へを愈々、所謂今日も心の勉強をさせて頂くという、しかも今日はこの手で、今日はこの御教えでと言う様にです心の中に、定めさして頂いての稽古をして行く内に。何時の間にか自分の心も豊かになり、大きくもなり一切を神様にお任せする所の、いうなら大らかな心も生れてき、喜びも湧いてくる様なおかげを。はぁこの調子で稽古をして行ったら御神徳が受けられるぞと言う様なものも。
 段々確信づけられて来ると、私は思う野です。どうぞ日々がです心の勉強です。勉強をしなかったらねその、言うなら神徳が身について行く事すらがわかりませんし、楽しみがないです。信心は結局そういう神様の御信用である所の、御神徳が身に付いてくる。信じて疑わない神様を、そう言う所に安心した心が生れてくる。それが愈々確固たるものになって来る事が楽しいという信心を身に付けて行きたいですね。
   どうぞ。